崔勇雄(チェ・ヨンウン)(53歳)
キンダイ観光株式会社 代表取締役社長
(一社)在日韓国商工会議所 鳥取 会長
「現場主義」
権五明)経営されております、会社の事業についてお聞かせ下さい。
崔勇雄)キンダイ観光株式会社を経営しています。ちょうど今年が設立50周年の年になります。父が創業者で現在はパチンコ事業をメインに、不動産、太陽光事業も行っています。50年の間には、ローラースケート場や、サーキット場、麻雀荘をやっていた事もありました。
権五明)会社の歴史についてもお聞かせ下さい。
崔勇雄)父は一世で、韓国で名門の光州高校を卒業後に日本に渡って、苦学をしながら大学を卒業し、母と結婚をしました。その後、いろいろな仕事をしながら大阪で建築業をはじめました。当時、母の実家がパチンコ事業をしていました。母には兄がいたのですが、その叔父は非常に勉強熱心で商売には興味がなく、教授や学者の道に進んだそうです。母の実家としては、叔父が事業を継ぐ事が出来なくなってしまった事もあり、父に白羽の矢が向いたのです。父は建築屋をたたんで母の地元、名古屋に行きましたが、実家と反りが合わなかった様です。その様な中、全羅南道の莞島(ワンド)にいる父の知り合いが、古い船を韓国に売る商売をしないかと言われて、その関係で偶然鳥取に来る事になったそうです。しかし、船も商売にはならないと思っていた時期に、つぶれかけている小さなパチンコ屋があったそうで、父は母の実家の件でパチンコのノウハウがあったので、それならやってみようとはじめたのが始まりです。
権五明)韓国から日本に渡り、言葉で言い尽くせないほどの苦労をされたのですね。
崔勇雄)本当に苦労したと思います。私には同じ事は出来ないです。父と母、私と妹3人の家族でした。父はある冬の時期、自ら命を断つことまで考えたそうです。その時は2歳の双子の妹が手つないで泣いている姿をみて思い留まったと言っていました。もちろん、その後も苦労は絶えなかったと聞いています。また、父の姿でよく覚えているのは、業界の浮き沈みが激しい時、特に悪い時は普通、右往左往しますが、父は「また良くなる」、「(良かったり悪かったり)その繰り返しだから、いつものことだ」と言っていました。激しい浮き沈みを幾度も経験した人の境地を垣間見ました。
権五明)お父様から学んだ事は多かったと思います。
崔勇雄)父は徹底した現場主義で厳しい人でした。私が韓国の高麗大学に留学している時、冬休みには日本に戻るのですが、戻った次の日からパチンコ店に住み込みで修行に行かされていました。お店では全ての業務をこなさなければなりません。それで私の冬休みが終わり、また韓国に帰ります。その繰り返しです。父の徹底した現場主義を汗水垂らして身体で覚えたので、結果的に全ての運営に関わる全ての業務ができる様になりました。従業員と共に生活し、共に仕事をする、大事な事を学びましたし、徹底した現場主義は今でも私の信念です。
「人の事を考え、人に優しくあるために」
権五明)会社の今後の展望をお聞かせ下さい。
崔勇雄)展望になるかは分かりませんが、私は、無理をして会社を大きくしたいという考えはあまりないです。それには理由がありまして、私が信用組合関西興銀に務めていた時です。勤めている支店で取引先をまわっていました。その中の一つに小さい工場を夫婦で経営している取引先がありまして、お二人共とても人柄もよく、私にも大変良くしていただきました。ある日、その会社の取引の中で、手形の事で問題が起き、支店の上の人間から、すぐに数百万円を回収してくるよう指示があったのです。
権五明)金融機関としては当然の対応ですね。
崔勇雄)私はすぐにその会社に出向いて、お金を入れてくれるようお話をしたのです。その時、それまでは本当に優しかった夫婦が、まるで別人と思える様な形相と言葉使いで、私に逆上してきたのです。暴力を振るわれる寸前の状況でした。入金するお金も余裕もないのです。その日は一旦支店に戻り、翌日改めて伺った際、昨日は悪かった、と謝ってきたのです。この経験から、どの様な人間であっても余裕が無くなると、ここまで人が変わってしまうのかと。そして、自分はいつでも余裕を持てる人間でありたいと強く考える様になりました。当時26歳でしたが、今日の私もその思いは変わっていません。余裕があるからこそ、人に優しくし、人の事も考えられると思います。質問の回答になるか分かりませんが、商売も同じスタンスです。儲け話はたくさん入ってきますが、無理をせず、余裕も持ちながら今後も商売をしていきたい。そう考えています。私には娘が3人いるのですが、将来の事業承継等も考えますと、尚更そう思います。
「分裂から再建へ」
権五明)韓商に携わることになった経緯をお聞かせください。
崔勇雄)関西興銀に勤めていた時の縁がキッカケになります。在日韓商歴代会長の朴忠弘常任顧問です。私は興銀にいた時は、朴忠弘常任顧問は副理事長を務めていて、雲の上の存在でした。父とも親しかったようで、私の結婚式に参席して頂いていますし、2010年父が亡くなった時には葬式にもお越しいただいておりました。その後、朴忠弘常任顧問が在日韓商の会長選挙に出られるとの事で、鳥取に選挙運動で演説にいらっしゃったのです。私も演説を拝聴しました。その後選挙を経て在日韓商の会長に就任されました。2011年です。
権五明)そこからどういう経緯で入会したのですか?
崔勇雄)朴忠弘常任顧問が会長に就任されて、私を理事に推薦されたのです。先程申し上げた通り、私にとっては雲の上の存在ですから、断る事なんて出来ません(笑)。
権五明)在日韓商への入会と同時に鳥取韓商への入会もしています。
崔勇雄)そうです。2011年に鳥取韓商、在日韓商に入会しましたが、所謂在日韓商の一社化問題の際に、鳥取韓商は緊急理事会を開催してしまいます。2012年4月です。当時の話ですが、私は「一社在日韓商」側でした。当時の鳥取韓商は「民団」側。あの時、私にも考えがあったので、若手中心の一社側の鳥取韓商を設立する事も考えた時期がありました。当然そうなると、鳥取に韓商が2つ存在する事になるわけで、それまで以上に分裂が深刻化する可能性がありました。先輩たちが中心で構成されている民団側鳥取韓商は、最悪の自体を避ける為にも、苦肉の策として鳥取韓商解散の道を選択したのです。当時の先輩たちの気持ちを考えると複雑な思いです。
権五明)分裂の影響を最小限に抑えて、未来に選択を残す形の解散だったわけですね。
崔勇雄)その後、2020年5月に鳥取韓商の再建が始まります。民団の皆さんも商工人も、先輩も若手が力を一つにし、応援をしあった結果、同年8月27日に再建を果たしました。今は先輩たち応援をいただきながら、若いメンバーを中心に活動を展開しています。
権五明)韓商での活動も10年以上になりますね。
崔勇雄)はい。振り返ると、韓商に入って多くの方と知り合う事ができました。韓商は出会いの場です。
権五明)出会い。そうですね。出会いがあって、そこから様々な影響も受ける。これは韓商の存続意義の一つかも知れません。
崔勇雄)同じ年や近い年代の同胞経営者と会って、またそれぞれの人脈が繋がっていきます。
「精神的支柱には高麗大学での日々」
権五明)会社と組織のトップとして忙しい日々を過ごされていると思いますが、健康やメンタル面で気をつけていることがありましたら、教えて下さい。
崔勇雄)健康面では、毎朝1時間ランニングをしています。距離にして約10㎞です。
権五明)素晴らしい取り組みです。
崔勇雄)私が留学していた、韓国の高麗大学経営学科は、在日で卒業するのが中々困難と言われていました。私が聞いた話では、在日では1985年に入学した方以来、経営学科の卒業生は出なかった様です。私は89年に入学しています。私の同期は皆さんものすごい頑張り屋でした。みんなで頑張って卒業しようと励ましあいましたね。前日3時迄飲んでいても、朝5時半には図書館で勉強していました。うちの大学って、ほんとうに飲まされるんです(笑)。
権五明)語学留学されている方は多いですが、韓国の学生と同じ勉強をするというのはあまり聞いた事がないです。
崔勇雄)その分、やはり在日にとって卒業のハードルが高いです。僕らは、夜中迄飲んでも、早朝にはシャワーを浴びて、学校に行く。そりゃあ昼過ぎ迄寝ていたいですよ(笑い)。でもここで人間の差が出ると考えています。その習慣が身に付いているお陰で、関西興銀に勤めていた時も、常に一番に出勤していました。今も会議等で東京に行き夜は懇親会に参加しますが、朝6時の飛行機で鳥取に帰っています。1日を有効に使うため、時間を無駄にしたくないのです。今でも続く習慣は高麗大学時代に身につきました。
権五明)高麗大学でのつながりは今でも続いていますか?
崔勇雄)私が留学した88年は、日本からの在日留学生が過去一番多かった年でした。大学時代の先輩、同級生、後輩のつながりは今でも続いています。また、その時のネットワークを韓商でも活かそうと思っています。部会などを通じてお互いがWin-Winになれる関係を構築出来ると思います。それがいずれは韓商の魅力につながるよう、現在取り組んでいます。我々は商工会議所です。どんどんビジネスの機会を提供していく必要があります。
インタビュアー・権五明広報委員会副委員長(京都韓商副会長)